PICK UP!【時代を撃ち抜いた猛者たち】第1回:ロシアが生んだ史上最高の女性スナイパー、リュドミラ・パヴリチェンコ

2018年02月06日

コラム 企画

ガンマン、ギャングスター、刑事、軍人、スナイパーなどなど、実在したGunヒーロー&ヒロイン(※アンチ含む)を紹介する新コーナー「時代を撃ち抜いた猛者たち」その記念すべき第1回はロシアが生んだ史上最高の女性スナイパーが登場。

【ロシアが生んだ史上最高の女性スナイパー、リュドミラ・パヴリチェンコ】

リュドミラ・パヴリチェンコ(1916ー1974)

《少女時代より射撃の才能が開花》

1916年。帝政ロシアのウクライナはキエフ州南西部の町、ピーラ・ツェールクヴァでリュミドラは生まれた。かつて存在した白壁の教会にちなんで、ウクライナ語で「白聖堂」の意味を持つこの町で幼少期を過ごした彼女は、1930年に家族ともどもキエフ市内に転居する。そして、キエフ市のスポーツ少年団の射撃部に入部。もともと素質があったのか、14歳にして周囲も驚くほどの射撃の才能を見せた。

やがてて高校を卒業したリュミドラは、キエフ兵器廠において旋盤工として社会人の第一歩を歩み始めるが、やがてその高い志から大学進学を決意。検定試験に向け勉学に勤しみ、国立キエフ大学文学部史学科へ無事入学を果たす。その一方で、自身の射撃の才能を革新していた彼女は射撃競技を続けており、その成績は射撃部の他の男性部員を含めても抜群のものであった。

「私のこの才能をいつか役立てることができないだろうか・・・」

リュミドラの胸中には既にそのような思いがあったのかもしれない。

 

《第二次世界大戦〜入軍》

1941年。第二次世界大戦の真っ只中、ドイツ軍のソ連領奇襲作戦「バルバロッサ作戦」により、ドイツ、ルーマニア、ハンガリー、イタリアのソ連領侵攻が開始された。

24歳になったリュミドラはまだ大学に在席中だったが、自らソ連赤軍への入軍を決意。希望する配属先はもちろん、自分の才能を駆使できる狙撃手であった。そして狙撃手適性試験と身体検査に合格し、“第25狙撃兵師団”に特別女子志願兵として入団。第54狙撃連隊に二等兵として配属された彼女は、射撃教育課程でも優秀な成績を残して正式に選抜狙撃手となり、高性能スコープを装着したモシン・ナガン ライフルを支給され初任務としてオデッサ市防衛に当たった。

高性能スコープ「PE」を装着したモシン・ナガンM1891/30

ソ連にとって不利な戦況が続き、ドイツ軍の猛攻で幾度となく撤退を余儀なくされる中で、リュミドラは最初の戦闘においてドイツ兵2名を射殺。早くも周囲の兵士から一目を置かれる存在となる。

しかし、ソ連最高指導者スターリンが1930年代に行った悪名高き大粛清により多くの指揮系統を失っていた赤軍はドイツ軍のさらなる猛攻に撤退を余儀なくされ、リュミドラをはじめとする狙撃手たちは本隊援護のために最前線に残されることとなる。ドイツ軍の進攻を狙撃により阻止せよとの命令がくだったのだ。

迷彩擬装で待ち伏せを行った狙撃手たちは多くの仲間の命と引き替えにドイツ軍の指揮官、通信兵、狙撃手などを次々と射殺。相当なダメージを与え進攻を大幅に送らせ任務を遂行した。この死闘においてリュミドラは枯れ草模様の擬装で敵陣に潜み、敵を一旦やり過ごしてからその後背などを衝いて700~800mの長距離から狙撃を行うという戦術で多大な戦果を挙げることとなる。

リュミドラは以降も、カウンタースナイピング(対抗射撃)の優れた才能を披露し活躍。約2ヵ月半で、独軍の狙撃手10名以上を含む187名を射殺した。これらの功績を讃えられ、彼女は短期間のうちに上等兵から少尉まで昇進することができた(ただしこれには赤軍の指揮官不足という背景もある)。

なお、この時期にリュミドラは狙撃用ライフルをボルトアクション式のモシン・ナガンから、セミオートマチック式のトカレフSVT-40に変更したと思われる。近~中距離での市街戦における狙撃には、遠距離射撃には不向きでも装弾数が多いセミオートライフルの方が扱い易いと判断されたことと、比較的軽量なことから赤軍の女性スナイパーたちの多くはこの銃を愛用したという。このことから、後退戦闘や防御戦闘を数多くこなし戦果を挙げてきたリュミドラが本銃をチョイスした可能性が極めて高いのである。

トカレフSVT-40 {Copyrighted free use}

その後、リュミドラと第54狙撃連隊は黒海の北岸に位置するクリミア半島のセヴァストポリに派遣された。ここでもドイツ軍の猛攻に包囲されたソソ連軍という状況は変わらず、リュミドラのカウンタースナイピングが冴え渡った。その結果、1942年5月時点で中尉となっていた彼女の確認できる範囲での戦果は257名にまで増加している。この偉大なる戦果を讃えられ、赤軍の南部委員会から個人感状を送られた。

しかし、同年6月にドイツ軍の大規模砲撃を受けたソ連軍のセヴァストポリ要塞は地下陣地のほとんどを失うこととなる。そしてリュミドラもこの徹底的な砲撃により負傷、北コーカサスにある赤軍病院に移送される事となり戦線を離脱する。

リュミドラは約1ヶ月の療養を経て退院するが、ドイツ軍の北コーカサス侵攻により再び前線に復帰して敵を迎え撃った。しかし、既にその功績によって女性を中心にソ連のほぼ全土でその名を知られるまでになっていた祖国の英雄を失う事を恐れた軍指導部は、リュミドラを新設した女子狙撃 教育隊の教官に任命し、前線を離れる事を命じる。

「私の戦いは終わった・・・」

第二次世界大戦におけるリュミドラの戦闘に終止符が打たれた。

その最終的な確認戦果はドイツ軍兵士 309名(内36名は狙撃手だったとされる)。

 

《ソ連の英雄として〜晩年》

戦線を離脱したリュミドラは少佐に昇進。外交宣伝の一環として当時は同盟国であったアメリカへ派遣され、ソ連の人間としては史上初となる、ホワイトハウスでのルーズヴェルト大統領との面会を果たした。歓待されたリュミドラは記念品としてコルト社製の小型自動拳銃を贈呈され、大統領夫人とアメリカ各地を回るツアーに参加した。さらにはアメリカ海兵隊訓練基地を訪問し、狙撃手養成講義も行った。

その後、カナダへ立ち寄ったリュミドラは記念に装飾されたウインチェスター社製のライフルを贈呈された。祖国のみならず、アメリカやカナダにおいても「史上最高の女性狙撃手」の噂は轟いており、まさにリュミドラは戦いの女神として崇められたのだろう。

帰国したリュミドラは1943年にソ連邦英雄を受賞、文字通り祖国の英雄として切手の図柄に肖像が使用された。赤軍は彼女の名声を利用して多くの女性を新たな狙撃手候補生として獲得できたという。リュミドラは女子狙撃教育隊の教官として候補生の指導に当たったが、彼女のように大いなる戦果を挙げ、生き残れた者は僅かだったといわれている。

そして1945年、遂に第二次世界大戦は終わった。

除隊したリュミドラはキエフ大学史学科に復学した。戦争によるブランクを埋めるように勉学に勤しんだ彼女は無事課程を修了。卒業後は海軍司令部の戦史課に就職し、1953年まで研究助手として勤務した。

その後、退役軍人委員会などで活動していたが、1974年10月に58歳でその人生に幕を下ろした。病死であった。

リュミドラの亡骸はモスクワのノヴォヂヴィシエ墓地に埋葬され、1976年には再び切手の図柄に選ばれた。

リュミドラの死後、1976年に発行された彼女の記念切手

最高の女性スナイパーであり、祖国の英雄となった彼女の人となりや真意は今となっては知ることができない。ただ単に類い希なる狙撃の才能とサバイバル術に長けただけの普通の女性だったかも知れないし、野心と向上心に溢れた女性で戦争下でなければ政治家や教師になっていたかもしれない。

いずれにせよ彼女はどんな時代でも、そんな環境でも、その強靱な意志と洞察力で成功していたことだろう。

 

こちらはリュミドラ・パヴリチェンコの伝記的戦争映画。ロマンス要素多めです。

 

 

 

投稿者:ToyGun.jp編集部